2018年3月第1空挺団の空挺館見学・その4

 

2018年3月第1空挺団の空挺館見学・その3の続きです。

 

2017年7月第1空挺団の空挺館見学・その2の追加内容でもあります。
2017年7月第1空挺団の空挺館見学・その2

 

空挺館の二階

 

二階へ…

 

かつてはここから上へは天皇と皇族の方々しか上がれなかったそうです。

 

習志野駐屯地・空挺館の二階への階段途中の踊り場
空挺館(御馬見所)の二階への階段途中の踊り場から

 

で、給仕の方とかは二階への階段途中の踊り場まてで、上の写真の右手にドアがありそこの部屋に居られたそうです。。。

 

ちなみに、この階段は段差が低くなだらかになっています。

 

階段を上りきると正面に陸軍大礼服が展示されています。

 

二階は歴史的な内容の展示がされています。

 

習志野駐屯地・空挺館の陸軍大礼服の展示

 

二階の別の場所ですが、歴代の騎兵学校長の写真が飾られています。
空挺館での歴代騎兵学校長の写真

 

空挺館・「臨幸のための御立ち所」

次に、前回の見学では天皇や皇族の方々が馬術をご覧になられた「臨幸のための御立ち所」の写真で、天皇家の「十六八重表菊(16弁の菊の御紋)」と皇族方への15弁の菊の御紋が見えにくかったので改めて撮り直しました。

 

最近知ったのですが、「十六八重表菊」は略して「十六菊」と言うのですね。。。

 

習志野駐屯地・空挺館の二階の「臨幸のための御立ち所」
正面

 

今回も花びらの数を数えてみました。

 

習志野駐屯地・空挺館の二階の「臨幸のための御立ち所」十六八重表菊16菊の紋章)と15弁の菊の紋章><noscript><img src=
正面右側

 

上の写真の左側の菊の御紋だけが15枚の花弁、他の御紋は全て天皇家の「十六八重表菊」です。

 

左右両側にも菊の御紋があります。
空挺館の「臨幸のための御立ち所」左壁の十六八重表菊16菊の紋章
左側面の十六八重表菊16菊の御紋

 

空挺館の「臨幸のための御立ち所」右壁の十六八重表菊16菊の紋章
右側面の十六八重表菊の御紋

 

いずれも16弁の「十六八重表菊」です。

 

習志野の地名の由来???

明治6年に近衛兵対抗演習ををご覧になられていた明治天皇が陸軍大将・近衛都督の西郷隆盛に演習で見事な指揮を執っていた指揮官の名前をお尋ねになられ、篠原国幹少将であることがお分かりになられました。
そこで、「篠原に習え」とお言葉を発せられたのが習志野の地名の由来とか・・・???

 

第1空挺団のパンフレット13ページ
出典: 第1空挺団のパンフレット13ページ

 

今回、「習志野原」の資料展示の写真も撮り直しました。
、「習志野原」の資料展示の写真

 

篠原国幹少将の写真

 

篠原国幹少将は、西郷隆盛と直接言葉を交わされていたことと思います。

 

長谷部正義少尉について

今回の空挺館見学の一番の目的であった「長谷部正義少尉」に関わる展示物についてです。

 

長谷部正義少尉の残された名言

 

昭和17年2月のインドネシア・スマトラ島「バレンバン降下作戦」での挺進第2聯隊中尾隊の小隊長であられた長谷部正義少尉の「もろともに死なんと集ふつはものはどくろの朽つまで務め盡すと」と言う名言です。

 

戦死して骨になっても任務が遂行できていないなら、ドクロが動いてでも任務を遂行するという意気込みで臨まれた戦いでした。

 

長谷部正義少尉
長谷部正義少尉
※ご縁戚様から掲載のご了解を頂いております。
一階級特進されて「陸軍中尉」になられております。

 

2018年3月第1空挺団の空挺館見学・その4

 

長谷部正義少尉が出撃前夜に小隊員39名と共に寄せ書きをした「小隊旗」です。

 

中央にドクロの絵が描かれています。

 

長谷部少尉はこの作戦で果敢に戦い戦死されてしまいました。

 

26歳だったそうです。

 

その後、長谷部正義少尉の奥様が立派なお墓を建てられています。

 

第1空挺団は長谷部正義少尉の精神を引き継いでいます。

 

そこで、第一空挺団ではドクロマークも使用しているそうです。

 

空挺館に展示されている旧陸軍バレンバン降下作戦の戦闘服と装備
バレンバン降下後の戦闘服と装備

 

空挺館に展示されている旧陸軍空挺隊の戦闘装備
バレンバンでの戦闘装備

 

空挺館に展示されているバレンバン降下作戦の絵画
空挺館に展示されているバレンバン降下作戦の絵画

 

空挺館に展示されているバレンバン降下作戦の絵画
空挺館に展示されているバレンバン降下作戦の絵画

 

義号(沖縄空挺)作戦 昭和20年5月24日旧陸軍・義烈空挺隊の装備
義号(沖縄空挺)作戦 昭和20年5月24日義烈空挺隊の装備

 

先の戦争では、大勢の立派な青年も戦争で失いました。

 

陸上自衛隊土浦駐屯地に隣接する予科練平和記念館には当時の若者の残した言葉や映像が残っています。

 

軍人以外にも大勢の民間人も犠牲になりましたよね。

 

私の母親の姉は昭和20年3月10日東京大空襲で亡くなったそうです。

 

私の父は最後の学徒出陣で戦争に行きました。

 

生きて復員しましたが、学費が無くなり大学を中退せざるを得ませんでした。

 

言葉に表せないくらい大変な目に遭われた方々が沢山居ました。

 

原爆の被害者も…

 

敵も味方も…皆悲しい思いをします。

 

私は昭和の戦後生まれですが、、、

 

私が小さい頃は、傷痍軍人さん達が路上に大勢居ました。

 

二度と戦争にならないように、時の流れと共に悲惨な戦争の記録を風化させて忘れてはいけないと思います。

 

国防のための抑止力として備えが必要な国際社会ですが、絶対に戦争は起きて欲しくはないです。。。

 

自衛隊が有事で出動することがないように願うばかりです。

 

その3は、、、
2018年3月第1空挺団の空挺館見学・その3

 

その1とその2は、、、
2017年7月第1空挺団の空挺館見学・その1

 

2017年7月第1空挺団の空挺館見学・その2

 

 

 
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